昭和60年の松尾大社西七條御旅所の本殿、社務所、神輿蔵、武御前社の改築大修理事業の竣工式の前夜祭のことでした。たまたまお付き合いを頂いていました「角倉平治さん」が突然こられまして、古い地図を持ってきたといわれました。大きな地図でした。畳一枚のものでした。大急ぎで内藤健雄さんと西村為彦さんを呼びました。早速大きなアルミ額を作り御旅所の正面に飾りました。 (小林金属興業株式会社製)
この地図は大正3年に 七條村が京都市に合併されるというので学校の生徒に書かせたものでした。葛野郡七條村の最後の地図でした。「角倉さん」はまじめに一生懸命に書いたものでした。大正7年頃と思います。
ところが、中に見ている見物人から「下の方」に書いてある「四つ塚」の文字をさして、いやなことを言いだしました。それで、いやになって蔵に仕舞いこみました。長い間 蔵にありましたが、七條中学の改築記念に、この額を表装して二双の折りたたみの屏風に仕上げて寄付いたしました。今ここに感謝状をもっています。平成12年3月9日付で校長が「赤井裕亮」先生です。角倉平治さんは元西七條に住んでいられました。 有名な 「角倉了以」の17代目の子孫という人であります。見事に書いてありまして、とても小学校の生徒が書いたものとは思えないものでした。亡くなられれましたが、たまたま同級生だったという「藤松弁之助先生」に、もう一度、複写をしてほしいとお願いをしまして、同じように和紙一枚の紙にしていただきました。それに94歳と署名もいただきました。大事に保管してあります。当時、角倉さんは堀川七條下がるに住んでいられました。H22,9,30,